9ヶ月前
【2】原点
◆農家の目で社会に疑念◆
最初に踏んだ戦場は、中国東北部(満州)だった。
満州事変の約3年後、1934(昭和9)年から約2年間。錦米次郎はハルビンなどに駐留した。錦の軍隊手帳によると、「龍江省秋季討伐」を除き、目立った戦闘はなく、警備などに当たっていたらしい。
このころの錦は、ほとんど詩を作っていない。終戦後、「現役(兵時代)は無我夢中で過ぎた」「天皇の兵隊になることは忠良なる臣民の光栄ですらあった」と当時を振り返った。作品「眼(め)の歴史」でも「自身の国家の絶対を疑わなかった」と表現した。
ただ、そんな皇軍兵士だった錦にも、社会や現実に疑いの目を向ける素地はあった。戦後、行動を共にした詩人の黛(まゆずみ)元男(81)は3月に出した詩集に書いた。
「彼(錦)が復員後、間髪を入れず方向性のある詩作を展開することになった要因は、戦場での体験や農村困窮の自己体験である」
■
旧伊勢寺村(現松阪市)の貧農の次男に生まれた。息子の聖紀(せいき)(71)によれば、米、麦、菜種を作っていたが、経営規模は周辺でも小さい方だった。自作田のほかに小作田があり、収量の半分は小作料として地主に納めていた。
小説集「百姓の死」では「コメが有ってもコメの喰(く)えない」という歌を引き、昭和初期の農家の貧乏ぶりを説明した。
29年の高等小学校卒業後、15歳で京都の西陣帯地商に丁稚(でっち)奉公に出た。このころ石川啄木の三行詩に出会った。店の食事は「私の家の百姓食よりも数倍上等豪華だった」という。約2年後、長兄が急死。農業を継ぐため郷里に戻った。
当時、米国発の世界大恐慌が日本を襲っていた。米の価格が急落し、全国的に農村の生活はどん底だった。小作争議が各地で起き、東北では娘の身売りが珍しくなかった。
日本が「破滅」の道を進むきっかけとなる満州事変は、錦が帰農した31年に起きた。満州での現役兵を除隊となった翌年の37年、中国の激戦地に送られ、2年後に召集解除される。
■
錦研究を続ける三重大学教授(日本近代文学)の尾西康充(44)は、錦が2度目の戦場から戻って本格的な詩作を始めたことに注目する。
郷里の農村は出征前よりも貧しくなっている。「大東亜共栄圏」の理想を追い、命がけで戦ってきたのに全然良くなっていない――。錦の日記にはそんな内容の記述がしきりに見られる、と尾西は指摘する。
「都会の知識人は観念的に社会や戦争をとらえる。これに対し、錦は、農家としての日々の生活から、社会や戦争に疑いを持った」
中国の激戦地から戻った約5年後、今度は南部仏印(ベトナム)で対米英戦に従軍する。父桂蔵は「また兵隊にとりくさって、ワシはもうあとの畑は知らんぞ」と嘆いた、という。
3度目の戦場に征(い)く前、田畑は1・2~1・3ヘクタールに広がっていた。だが、その半分ほどを手放し出征した。
黛は想像する。「残った両親や妻だけで耕作できる規模にしなければならなかった。断腸の思いだったでしょう」(敬称略)
◎満州事変 1931年9月、奉天(現・瀋陽)郊外の柳条湖で陸軍関東軍が鉄道線路を爆破。これを合図に作戦を開始し、満州主要部を占領した。32年3月には満州国を建国した。日本の新聞は事変を「日本の正当防衛」「権益擁護のための聖戦」などと書き立て、中国の抗日運動は高まり、米国などとの対立が深まった。
2011年08月16日-asahi.com-
»(出典: mytown.asahi.com)
-
pontyの投稿です
